元ネタも知らずに映画を語るということ。

 現在、日本映画専門チャンネルでは、「キルビル」の元ネタとなった日本映画として、「子連れ狼 三途の川の乳母車」・「修羅雪姫」(釈由美子が出てない方)・「修羅雪姫 怨み恋歌」を放映している。こうした企画は元ネタを知らなかった身として大変有難い。
 映画というメディアが誕生してから百余年も経つと、流石に無から有を生み出すという行為が苦しくなってくる。現在公開されている作品の殆どが、何かの焼き直しだったり、元ネタがあったり、パクりだっり、何か別のメディア(漫画とか)で人気を博したモノだったりと、正真正銘のオリジナルとは言い難い作品ばかりである。
 まぁ、ソレ自体は仕方の無い事であって、それは寧ろ“映像技術の進歩によって元ネタを昇華させている”と捉えるのが正しい解釈かも知れない。問題なのは“元ネタを知らずに観てしまう事”だ。
 例えば、ある監督が誰か別の人の作品を上手にパクって映画を作ったとする。元ネタを知らない観客が、それがパクりであると知らずに映画を観賞し、大変気に入ったとする。で、コレを作った監督を褒めちぎるワケだが、その後に元ネタと出会った時に、その観客はどういう印象を受けるのか?恐らく、最初に観たインパクトが強ければ強いほど、作品の評価を落とすのは難しいと思う。
 今の小学生にファミコン版のドラクエⅢをやらせたら、きっと「チャチい」と言って貶すだろうが、当時小学生だった俺にはアレが傑作なのだ。多分映画もそう。チープだとか、ありきたりとか思うのは、原体験として先に模造された紛い物を沢山観ているからだ。それはとても不幸なことである。
 だから、昔の傑作と呼ばれる映画は恭敬して観るべきだ。